70th anniversary
- NPO法人(特定非営利活動法人)オール・アバウト・サイエンス・ジャパン代表理事
- 西川伸一先生からの70周年のお祝いのメッセージ
【私のEnglish事始め】
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佐伯英語教室が70周年を迎えられた記念の文章を、卒業生代表として寄稿できることを光栄に思います。私が通い出したのは1960年なので、教室が始まって8年目ということは、卒業生全体から見ると、かなりの古株と言うことになります。
私の場合中学の途中で滋賀県に引っ越したので、最後まで終了するということはできなかったのですが、後で述べるように自分自身のEnglish事始めは、佐伯英語教室から始まっていると思っています。このときのEnglish学習を別にすると、私にとっての英語は受験に必要な学習項目の一つでしかなく、大学に入ると勉学の対象から完全に外れてしまいました。その意味で、佐伯英語教室の教育が、私にとっての最初で最後のEnglish学習だったのだと思います。
大学に入って英語は勉学の対象ではなくなるのですが、今度は勉学の手段として重要になってきました。私は医学部でしたが、教科書の多くは英米で編纂されたもので、原著の丸善エディションなどを買う方が、翻訳版を買うより遙かに安かったので、英語は医学を学ぶ手段として大事になりました。結果、たくさんの文章を読んでいくうちに、自然と英語が身近なものになりました。まさに学ぶより慣れろだと思います。
その後、卒業して研究を始めると、教科書だけで無く論文を読む時間が増え、目にする文章のかなりの部分が自然に英語になっていきます。そして、研究結果を発表する段になると、当然英語で発表する必要があります。読むよりは苦労しましたが、英語で書かないと誰にも読んでもらえません。といっても英語を話す同僚などいませんから、先輩や同僚の協力を得ながら、少しづつ英語論文を書けるようになったと思います。
今の若い方から見ると不思議に思われると思いますが、英語を読み、書けるようになっても、Englishを話す機会のほとんど無い人間が、当時、普通に大学にいたのです。このように私にとって英語学習とは、職業に必須の手段を試行錯誤を通して自然に身につける過程で、生活の中で話すことから全く切り離されていました。
しかし、読んで書く世界だけにとどまることは出来ません。論文を発表することは、世界への窓ですから、当然のように学会や留学など、人と話すという機会が訪れます。私たちの時代は、このとき初めてEnglish Speakingを習いに行ったりする同僚がいました。今の社会人学習と同じです。
ところが私は全くこの必要を感じませんでした。私が初めて学会で英語の発表をし、外国の研究者と話すようになったのは28歳でしたが、聞き取りにすこし問題は感じましたが、問題なく発表と続く質疑応答を切り抜けるだけでなく、学会や会話を結構楽しむことが出来ました。
その後現在まで、おそらく普通のかたよりは英語を多く使う生活を送ってきたと思います。また自分の教室を主宰するようになってからは、多くの留学生を受け入れ、ミレニアムプロジェクトとして神戸に、Riken Center for Developmental Biologyを設立してからは、私の教室の1/3は外国人になり、教室だけで無く研究所全体で、Englishが公用語になりました。このような環境で研究すると言うことは、教室内だけで無く、飲んだり食べたり遊んだり、生活の中にEnglish が入ってくることです。おかげで現役最後の10年は、多くの国の研究者や学生と、Englishを手段として楽しい生活を送ることが出来ました。
こう書いてくると、英語など必要になれば自然に身についてくるという話になります。実際、英語学習については、学ぶより慣れろというのは正しいと思います。例えば機械翻訳も最初は論理回路を使って翻訳が試みられましたが成功せず、いわゆるAIを用いた「慣れろ」型の翻訳が大成功を収めています。しかし、頭に浮かんだことを機械に話してもらうのでなく、Englishを使って会話しコミュニケーションを楽しむとなると、全く別の話ではないかと思います。
おぼつかなくなった記憶をたどって、なぜ読み書きという英語から始めた自分が、Englishも使えるようになったのかを考えてみると、一つの鮮明なイメージが浮かんできます。それは、あの下鴨の教室で、当時の私にとってとても大柄に見えた佐伯先生が、腕まくりをして、”rice, lice”とr と lの発音を何度も何度も教えてくれているイメージです。
実を言うとこれまで73年の人生で、英語を学校以外で学んだのは、佐伯英語教室だけでした。その後は学校での受験勉強以外、英語、ましてやEnglishを習った記憶はありません。なのにEnglishを話す必要が生まれてからこれまで、初対面の英米人と話すと、英語圏に留学したことがあるかと問われます。Nativeとは言わないまでも、発音はイケていると思われているようなのです。とすると、この私のEnglishは、rice & liceと発音される佐伯先生の口の動きを食い入るように見た経験に始まっていることは間違いありません。
以上が私の英語事始め、そしてEnglish事始めです。おそらく我が国で、英語ではなくEnglishを身につけさせることの重要性を、佐伯先生はわかっておられたのだと思う。この原稿を書きながらこのことを再認識することが出来ました。あと何年生きるかわかりませんが、これからはEnglishを使うたびに佐伯先生を思い起こすとおもいます。先生、本当にありがとうございました。また、改めて70周年おめでとうございます。
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略歴
1948年滋賀県に生まれる。1973年京都大学医学部卒業。京都大学結核胸部疾患研究所にて研修医、医員、助手を経て、 1980年ドイツ ケルン大学遺伝学研究所に留学。帰国後、京都大学胸部疾患研究所にて助手、助教授を勤めた後、1987年より熊本大学医学部教授、 1993年より京都大学大学院医学研究科、分子遺伝学教授を歴任。 2002年京都大学を退職し、理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター副センター長および幹細胞研究グループディレクターを併任。
2013年、あらゆる公職を辞し、NPO法人オール・アバウト・サイエンス・ジャパン代表理事として新しく出発。 NPOでは、様々な患者さん団体と協力して、患者さんがもっと医療の前面で活躍する我が国にしたいと活動を行っている。
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65th anniversary
- 京都市立病院 副委員長、日本救急学会救急科専門医、京都大学臨床教授
- 森 一樹 先生からの65周年のお祝いのメッセージ
【英語と私】
- はじめに
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Saeki English School (旧佐伯英語教室)創立65周年おめでとうございます。
自分が初めて門をくぐったのは50年前のことです。人生の曲がり角はいくつもありますが、佐伯英語教室との出会いが人生で最初の、そして最大の転機でした。AFSでの米国留学、医師としての人生、素晴らしい出会い。感謝は言葉に尽くすことはできません。ここでは50年前の自分と英語との出会いについて振り返り、当時の勉強法についてご紹介したいと思います。
- 英語との出会い
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佐伯英語教室の「入学式」のことは今でも覚えています。1967年3月の初め、洛星中学の合格発表のすぐあとでした。母の知人の松田さんからご紹介いただいたと記憶しています。長い中学入試のための勉強から解放された小学六年生の3月、これから遊ぶぞ、と楽しみにしていた直後でしたが、期待と不安を持って教室にうかがいました。下鴨中学の前の道路はまだ舗装されておらず、雨のあとでぬかるみだらけでした。古い、見たことのない形をした椅子が並ぶ教室でした。故佐伯治先生(佐伯洋先生のお父上。洋先生は当時留学中)の、低音のゆったりとした話し方が今でも眼に浮かびます。「諸君がここでしっかり勉強すれば必ず英語をマスターできます」、「訳すだけの受験英語だけではだめです。これからは話せて、書ける英語でなくてはいけません」そして次のお話しをうかがったとき心に稲妻が走りました。「AFSという高校生の交換留学の制度があります。試験は難関ですが、1年間アメリカに“ただ”で留学できます。この教室からも毎年一人は合格しています」当時のアメリカは、今よりもはるかに遠い世界でした。1ドルは360円、その3年前(1964年)に初めてテレビの「同時中継」(いまでは当たり前の話ですが)が実現した時代です。それがこの教室で勉強すれば、必ずアメリカに行ける!! 不謹慎にもクイズ番組優勝の「ハワイの旅1週間」が頭に浮かび、まだアルファベット習う前に「AFS」挑戦を決めてしまいました。
週2回の教室は治先生の「授業にでるだけで英語はマスターできます」の言葉を信じて、けっして休まないようにしました。最初に習うのはRとLの発音です。例えばRice(米)やLice(虱)、をはっきり聞き分けられて、正しく発音できなければなりません。治先生の口元がよく見えるようにできるだけ早く行って一番前の席に座るようにしました。通い始めて1ヶ月後に中学の入学式、英語の授業が始まりましたがすでに同級生よりははるか先を進んでいます。英語担当のSister Rosemaryから“Your pronunciation is very good!!”と発音を誉められてとてもうれしかったのを覚えています。そのころいつも一番前に座っていた仲間に同志社のM君、下鴨中学のS君がいます。治先生に三羽烏とかわいがっていただきました。かれらは今、どうしているのでしょうか。こうして、私の英語との出会いがはじまりました。
(写真)AFS交換留学時の新聞より
- 私の英語勉強法
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特別なことはせず、佐伯英語教室に通い続けました。週二回、時にはお願いして別のクラスにも参加させていただきました。(いまでは回数無制限のクラスもあるのですね)中間試験や期末試験の前になると、準備のため欠席者も多くなるのですが、がんばって休まないようにしました。(かかさず送迎してくれた両親の協力もありました)先生の話される英文をその場で訳す。皆で声をだして話す。先生の日本語をその場で英語に直す。そして皆で声をだして読み上げる。同じ文章を1年中繰り返すのでそのうちに完全に覚えてしまう。ひたすらその繰り返しでした。中学1年生の終わりには、まじめに出席していた生徒は3年生までの教科書をすべてマスターしていました。洛星中学では当時Progress in Englishという教科書を使用していたのですが、授業に出席するだけで定期試験のための勉強は全く不要でした。
中学2年からは、NHKラジオの英語会話のテキスト(ラジオテキスト)が使用されます。毎朝6時15分からの放送(講師は松本亨先生)を欠かさず聞きました。講師とゲストのアメリカ人のアドリブ会話が聞き取れるのがとてもうれしかったのを覚えています。2年生からは、学校の教科書ではなくReader’s Digestなど佐伯英語教室オリジナルの教材が使用されました。アメリカの日常生活をつづった内容に、留学への思いはますます募っていきました。予習は必ず行いました。次の授業の範囲をまず音読する。(わからない単語をチェックしておく)、つぎに一つ一つの文章を、意味を考えながら読んでいきます。今度はチェックした単語の意味を辞書でしらべていきます。知らない単語はノートに書き写しておきます。意味がわかったところで全範囲をもう一度音読。(声に出すことが大切 !!)その上で授業に臨みました。授業中にはわからなかったところを確認し、終了後に先生に質問しました。もうひとつ私がやったことは、歩きながらブツブツ独り言をいうことです。(もちろん英語で)家を出たら“Oh、It’s a beautiful day today.”(今日はええお天気や)、”I missed the bus. I have to wait another 20 minutes.”(バスがいってしもた。20分も待たんならん)などとつぶやきます。(人のいるところでやると、危ない人と思われるので要注意ですが)わざわざ英会話を習いに行かなくても、これならどこでもできますね。
中学3年からは、英字新聞が教材に加わりました。英文紙のThe Japan Times を読んでいきます。身の回りの出来事が英語でどのように表現されるのか、とても興味がありました。教室では1日分を何回にも分けて読んでいくのですが、両親に頼んで日刊紙をとってもらうことにしました。英語で新聞が読めることにとても感激しました。1969年といえば、人類が初めて月に着陸した年で世界中が興奮していました。日本語の新聞にない記事も多く、辞書にない専門用語は、日本の新聞と対比しながら読みました。テレビの実況中継も同時通訳なしにすらすら理解できたのはとてもうれしかったです。自分の興味のあることを英語で勉強する、これも英語習得の近道です。
その後のAFSの試験(筆記、面接、論文)も特別な準備をすることなく合格することができました。高校3年のときには英語検定1級に、大学1年には通訳案内業の試験に合格することができました。
- 医学と英語
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医学は日進月歩です。求められる知識の量も飛躍的に増加し、私が学生のころと比べて教科書の厚さも三倍になっています。今は優れた日本語の教科書も出版されていますが、最新の、そして重要な知見は全て英語で発表されます。患者さんの診療は、最新の情報に基づいて行わねばなりません。診察室でも、少しでも疑問があるときはスマホから最新のガイドラインやデータベースにアクセスし確認するのが今の診療のスタイルです。「英語会話だけではだめです。読むこと、書くことをおろそかにしてはいけません」佐伯治先生の教えの意味を、今かみしめています。
- おわりに
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中学、高校のころ下鴨本通りから糺の森を通って通ったことを懐かしく思い出しています。学ぶことの喜びもですが、毎回必ず何か誉めていただけるのがうれしかったのです。不安でだらけの時期に、自分への自信を与えていただいたことにも感謝の気持ちがいっぱいです。一人でも多くの後輩が英語を学ぶことの喜びを知ってくれることを願っています。
- 森 一樹
- 京都市立病院 副院長、医師